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種子島って
種子島は、古くから日本本土と琉球・中国・東南アジア・インド・西欧を海の道で結ぶ交易の接点として重要な役割を果
たしてきました。種子という名は、日本で初めて稲を作った島という説とアイヌ語の長いという意味の「タンネ」からきた説があります。
種子島が日本史の記録に登場するのは古く、日本書記には、667年(天武6年)2月に「多彌嶋人等」が奈良の都を訪れた事が記録されました。天武10年8月の処に「その国、都を去ること五千餘里。筑紫の南の海中にあり。…粳稲常に豊かなり。ひとたび植えて再び収む。」と書かれています。
種子島の北端の浦田神社には、「御種子蒔石」があり、「ウガヤフキアエズノミコト」がここで初めて稲の種を蒔いたといわれ、日本の米作りはここから大隅半島を経て北上したと伝えられています。北の浦田と正反対、種子島の南端にある宝満神社に祭られる「玉
依姫」はこの土地の人々に米の作り方を教えたといわれる神様で、この神社に伝わる米は「赤い米」なのです。赤米と白米の南北二つの神社に共通
して、伝えられているのは、種子島が日本最初の稲作の地であったということです。
種子島に人が住み着いたのは、島内の発掘調査によれば、今から約31,000年前の旧石器時代で、弥生時代の「広田遺跡」からは「山」の字の刻まれた貝製品が発見され、少なくとも約1,700年前には、この島に文字を知る人々が住んでいたと思われます。また、弥生時代の後期の上能野の貝塚からは、鉄製の釣針が発見され、鎌倉時代に初めて種子島信基(平清盛の曽孫)がこの島の初代島主になった時は、すでにこの島では砂鉄から鉄を作る技術が発達していたのです。
歴史の中では、思いもよらぬめぐり逢いが起こります。1543年(天文12年)8月25日、種子島の南端門倉岬に一隻の難破船が漂着しました。この舟には三人のポルトガル人が乗っていて、この時日本の歴史を大きく変える「鉄砲」がこの島に伝えられました。十四代島主種子島時尭は、大金二千両で鉄砲二艇を買い求め、八板金兵衛清定に鉄砲を、笹川小四郎に火薬製法を学ばせ、苦難の末ついに国産銃の制作に成功しました。この鉄砲が、日本の歴史を大きく変えることになるのです。
種子島は、古くから農業と漁業、山の幸と海の幸が肩を並べあってきた島です。
第十九代島主久基は、1698年元禄11年、琉球王から送られた「カライモ」を栽培しました。あの青木昆陽が甘藷の栽培を始める37年も前です。また、住吉能野の里は、近世から明治に至るまで種子島の人々の生活に必要なあらゆる陶器を作り出した能野(よきの)焼で知られています。現在多くの陶芸家がこの地で活躍しています。
種子島の海は、西海岸の女性的なやさしさに比べると、東海岸は荒々しく、変化に富んでいます。東海岸の特徴を現わす景観のひとつに、古い伝説の伝わる「馬立(またて)の岩屋」があり、もうひとつは、自然が作った洞窟として熊野海岸に「千座(ちくら)の岩屋」があります。これは、人間が千人は座れるというところから名付けられました。
種子島は台風の通り道ということもあり、難破・漂着した船は過去に七十三隻を数えます。1885年明治18年9月、アメリカ船カシミヤ号難破船員十二名を救助した事件は、アメリカ国民を感動させ金メダルと高額な資金が送られてきました。また明治27年にイギリス船ドラメルタン号を救助したときインギーすなわち英国人から送られた珍鳥、インギー鳥を今なお絶やすことなく飼育してます。
近年のめざましい科学技術の進歩に伴い昭和41年に宇宙開発事業団の種子島宇宙センターが南種子町に建設されました。実用衛星はすでに私たちの生活と切っても切れないほど身近なものとなり、種子島はわが国最大の宇宙開発の基地です。
日本の近世史に画期的な影響を与えた鉄砲と、現代科学の最先端をいくロケットが共にこの島にあることは、歴史の偶然でしょうか。
「歴史と科学の島」それが種子島です。
蒼い海、潮風、種子島全島を覆いつくさんとするサトウキビ、そしてなんといっても食の島です。
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